テ挿Tq句

August 1682007

 忘れいし晩夏は納屋のかたちせり

                           津沢マサ子

れていた晩夏は納屋のかたちをしている。単純に意味を追えばそうなる。納屋といっても狭い住居に暮らす都会では想像しにくい場所になってしまった。農機具や役に立たなくなった生活用品を保管する納屋は、日常から隔たった薄暗い場所。おとなは用のあるときにしか立ち入らないが、子供にとっては絶好の隠れ家だった。親に見つからないよう身を潜めて流行おくれの帽子をかぶってみたり、いけない本を盗み見たり、ほこりだらけの鞄の底を探ったりした。閉め切った納屋の空気はむんむんして、扉の隙間から細く射す金色の光に細かな埃が浮いているのを不思議な気持ちで眺めた。永遠に続くように思われた夏休みももうすぐ終わってしまう。納屋で過ごしたひとりの時間がこの句を読んで蘇ってきた。あの夏の一日もガラクタのように納屋へ放り込まれてしまったのだろうか。納屋は過ぎ去った日々を過ごした懐かしい場所であるが、その記憶もいつしか曖昧になって納屋そのものになってしまうのかもしれない。その中に入ろうとしてももはや子供の私へ立ち戻ることは出来ない。「納戸より見ゆるむかしの夏の色」と岡本高明の句もある。遠い夏の日々は納屋や納戸にこそ息づいているのだろう。『風のトルソー』(1995)所載。(三宅やよい)


May 2352010

 空き缶がいつか見ていた夏の空

                           津沢マサ子

を書いていてどうにも行き詰まったときには、わたしの場合、登場人物に空を見上げさせます。空を見上げるという行為がもたらしてくれるものに、助けられることがしばしばあるからです。それというのも、八木重吉の有名な「あかんぼが空を見る」を持ち出すまでもなく、人生いろんなことがあるけれども、わたしたちは所詮、空をみつめて生まれ、空を見つめて日々を生き、空を見つめてこの世を去ってゆくからなのでしょう。気がつけば「空き缶」という言葉にも「空」がきちんと入っていて、つまりは空き缶の中には空がびっしりと詰まっているというわけです。どこから見ても明解な句ですが、唯一考えさせられるところは、「いつか」の1語。今ではなく「いつか」と言っているだけなのに、それだけで意味深げになるから不思議なものです。いつかの空に、いったいなにがあったのでしょうか。水溜りの脇に捨てられた空き缶とともに空を見つめれば、私の中もすっかりカラになって、喉もとまで空が満ちてくるような気がします。『角川大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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